機動戦士ガンダムSEED DESTINY 第50話『最後の力』

人々は繰り返す。
ただそれだけのことだ。
だから人々は戦い続けている。

機動戦士ガンダムSEED新シリーズ、2006年10月7日放映開始!
ってなってくれw
是非来年も頼むよwww

というわけで最後の感想です。
絶対愚痴りません。
絶対愚痴りませんから。
絶対に。
絶対に愚痴りませんってば。
愚痴りとは違うのだよ、愚痴りとはっ!

よしっw

そういや冒頭ミーアザクらしきものが出撃してましたね。
あれ今全然売ってないんですよ…
やっちったorz

今までの感想では「拠って立つもの」という言葉で、微妙なニュアンスを伝えるべく説明を試みていた訳ですが、今回は「与えられた運命」という言葉でそれを代替したいと思います。
もちろん今日のテーマは「運命」です。いやちゃんと今作のテーマなはずです。

ラクスは今回、オーブを討たせない事が最優先、オーブこそがプランに対する最後の砦であるとして自らの命よりもオーブを優先しましたね。
やはり「国」という単位は非常に強力なんでしょうね。
一個人の対世間的なカリスマ性をみれば当然ラクス>カガリでしょうが、私たちが生きている今この瞬間にすでに存在してしまっている国家という単位を鑑みると、国としてラクス達の正義に一番近いオーブはラクス一個人の力よりも優先すべき「最後の力」なのでしょうね。


では、まず本質論から。
逃れられない自分(もちろん自分というものの存在している環境等も含まれているでしょう)、取り戻せない過去、そういったものは「与えられた運命」として今生きている人々を翻弄します。一個人、一人の人間は、しばしば「与えられた運命」によって象徴されたり、評価されたりします。
生きていく上で、「与えられた運命」は人々に多大なる影響を与えますが、しかしながら何かを選んでいくのは「与えられた運命」ではなく、自分自身のはずです。
ただただ「与えられた運命」のままに生きていくことだけが道なのではなく、それに抗い、自分で選び、未来を作る「掴み取る運命」があるからこそ、人は人として生きていくのです。

遺伝子さえもいじることのできるこの世界で、自分とは何か?というものを突き詰めていくと、最終的に人の「心」に行き着くでしょう。遺伝子操作ですらいじる事のできない、また形のあるものとして存在はしていなくとも、確実に一人一人に存在している「心」。
対象を広げるなら、自分が育ってきた環境、その他諸々自分の「与えられた運命」もまた自分を構成するものなのかもしれません。
しかし自分自身は「与えられた運命」だけによって存在しているのではなく、また「与えられた運命」もそれがそのまま自分自身ではないはずです。
そして最終的には、「与えられた運命」に従うか抗うか、受け入れるか否か、こういったことを全て決めるのも自分自身です。

「与えられた運命」にただ従うのも1つの道です。
しかしそれを選んだ自分自身というものをしっかりと持たなければならないのでしょう。
「これが俺の(与えられた)運命だから」と行動するのではなく、ならその「与えられた運命」に従うことを自分でしっかりと選び取らなければならない、何かをする際に、しっかりと自分の「心」で、一人の人間として選び、「掴み取る運命」を手にすることが重要なのだと思います。

デスティニープランは、言うなれば「与えられた運命」を「掴み取る運命」に直接適用し、それ以外の行動原理に則る事を原則禁止するものです。
さらに言うと、その「与えられた運命」に最適に従うことで幸せに生きられるだろうと。
しかし人が自ら「掴み取る運命」を選び取る事のできない世界は一体?


イザークはザフトでありながら、変な理屈は付けていましたが、エターナルの援護をしていました。軍人としては最低ですが、ザフト軍人としてということ以上に重要であると判断したのでしょう。自ら選び取る行動としては象徴的でしたね(あんまり時間は割かれてませんが)。


守れなかった、だから守りたかった。そのためには力が必要だった。
だから力を手にし、守り続けた。
それでもシンはステラを守れず、ただ「与えられた運命」に突き動かされながら戦い続けてきました。
でも人々は「掴み取る運命」を手にするために、未来のために生きていくんです。
シンは「与えられた運命」に囚われすぎて、まず「与えられた運命」ありきで未来の「掴み取る運命」を考えてしまっていました。
さらにシンは最後、ルナマリアを撃とうとしました。
守る守ると言いながら、結局シンは悲惨な過去という「与えられた運命」を背負った自分を間逆な方向に向かせる事で「与えられた運命」に抗っている気でいて、その実逃げていただけなんですね。
でも人は逃げちゃ駄目だ、逃げちゃだめだ、逃げ(ry とは思っても逃げてしまうものです…
アスラン「この馬鹿野郎っ!」
なんて爽快(笑
頑固オヤジだ…

ルナマリアは案外とても単純な考えだったんじゃないかと思うんです。
アスランの言葉を聞いて、やっぱりアスランには好意を持っている。シンの事も好き。ちょっと冷静に考えれば、ここで殺しあってどちらかが死んでも誰も喜ばないのだろうと。
ルナマリアにとっては、妹メイリンの生存がとても重要で、これはシンの妹マユが帰ってこないことと対比できると思うのですが、だから彼女はシンより先に未来を見据えることができたのではないでしょうか。

そしてシンはステラとの邂逅をへて目覚めます。
シン自身にとってはステラもまた守れなかった存在で、「与えられた運命」=取り戻せない過去であるわけですが、シンにとって「与えられた運命」はステラの死だけではなかったはずではないか?
幸せだった良い思い出も多くあったはずです。
しかし悪い事ばかり思い出してしまうのもまた人ですが。
記憶操作によって過去を持たないステラは本当の「昨日」(=過去)をシンに貰いました。
確かに昨日は良い事ばかりじゃないかもしれなかったけど、昨日があったから明日(=未来)がある。
明日へ行ける。
昨日を否定するだけでなく、受け入れて作る明日。明日は明日。
最後の涙でシン…変わるか?

シンはsin=原罪としての名が冠せられただけはあります。

ステラの「今は…」はなかなか良いですね。
過去と未来の狭間「今」。
「今」が過去(与えられた運命)も未来(掴み取る運命)も作り出すのですから。

レイはキラの「君はクルーゼじゃない」の言葉で動揺し、撃墜され、最終的にキラの言う未来を選びました。
レイはラウのクローンとして、二重の意味で未来を奪われていた存在でした。それが人の欲望の結果であるから、こんなことが二度と起きない世界が望ましいのは当然のことです。しかしそういった自らの「与えられた運命」の前に、レイはレイとして一人の人間であった。まずそれをキラに示されました。
そして「与えられた運命」に従ってのみ生きる自分と、それによらず「掴み取る運命」を手にしようとするキラの言葉に未来への希望を感じ取ってしまったのでしょう。


最後はデュランダル。タリア。
最後にタリアの「これが運命だったのかも?」的な発言がありましたが、これがデュランダルの「運命」だったならば何と皮肉な事か。なにせ原点がタリアとの分かれでしょうしね…
デュランダルの「与えられた運命」にただ従うならば、彼はタリアと1つになる事を許されない(元より欲望しない)。
でもタリアと人生と共にすることでやはり「嬉しい」。
タリアが自ら「掴み取ってくれた運命」。
究極の自分だけを行動原理にしたって、自分以外の人間と共に自分があるということです。

母親も父親も存在していないレイがタリアに「お母さん」と言ったのがとても印象的でした。
というかこれDESTINY最後の台詞?
良かったね、レイ。

キラの覚悟に何か激烈なものを感じました。こいつ何する気だ…
口調が恐ろしかったんですが。


あとがき
運命とは全て過去のものです。掴み取ろうとする運命も掴み取った瞬間には過去のものとなります。しかしだからこそ私達は今選び、生きていかなければなりません。
そして未来を作るのは運命(与えられた運命)じゃなく私達自身で、私達が運命を切り開こうとする力、人々の意思、心、そういったものこそが人の「最後の力」であるべきなのだろうと考えた最終回でした。
もちろん自分自身とも戦い続ける事のできる「力」で。

パッと見、旧キャラが画面上では大活躍し、主人公はキラとなりという感じですが、テーマをしっかりと追っていくとほとんど新キャラで主題を語りつくしている(もちろんミーアも忘れずに)気もいたします。

では短い間でしたがご拝読ありがとうございました。
また次回作でお会いしましょう♪

あ、最後なのでコメントくださると嬉しいです^^